地域産業の歴史を学ぶ機会があり、大阪産業集積になぜ鉄鋼、機械加工の業種が多いのか、調が進むにつれ、大阪砲兵工廠にたどり着いた。中でも、鉄鋼、アルミ加工の技術、加えて機械金属加工について、お雇い外国人から技術導入を図ったことなどが興味深かった。
草稿の段階における先行研究は、三宅宏司などをはじめとした技術史、産業史の専門家による丹念なリサーチがされていた。
しかし、現代工業から砲兵工廠で開発された技術をみれば、「砲兵工廠での技術と現代の大阪中小工業との関係について認められる」など解明が進んでいないことがわかった。
中でも、大阪府商工経済研究所(1959)『大阪の経済と産業構造』で「わが国における近代的工業の導入は政府によるものが多いが、大阪においても例外ではなかった。明治3 年の堺紡績所、翌4 年の大阪造幣局、12 年の砲兵工廠がある。(中略)砲兵工廠についても、従業員はここで、機械、金属、その他の生産技術を習得して、独立創業し、後、中小工業の増加する由因となったのである」(同,p.152)と指摘があるものの、中小工業のどういった分野に影響したか、どの工場が工廠出身工員による創業の工場なのか、また、当時の外注先であった中小工場とその取引影響について、深く考察されてはいない部分に研究余地を見出した。
そこで、この関係性を深彫りすべく文献調査とフィールドワークを通じてリサーチした。
複数の大阪市内の中小工業では創業者が砲兵工廠と取引していたなどの証言が得られ、砲兵工廠の技術が大阪の中小工業に滲み出た(スピルオーバー)ものとの仮説が持ち出せた。
研究のフレームワークとしては、地理経済学でのR.C.Estall and R.O.Buchanan(1973)での「先行工場」理論を当てはめた。イギリス産業集積の立地形成で、政府の積極的な誘致等の関与により、産業集積の形成が行われるとし、その際の核となる工場を「先行工場(advance factory)」と呼んだ。
1.三宅宏司(1993),『大阪砲兵工廠の研究』,思文閣出版
2.大阪府商工経済研究所(1959),『大阪の経済と産業構造』,経研資料No.213
3.R.C.Estall and R.O.Buchanan ; 小杉毅・辻悟一訳(1975),『工業立地論 : 工業活動と経済地理学』,ミネルヴァ書房
優秀な技術者が創業し、いまなお優れた企業を外注工場として製造していた砲兵工廠!
創業の連鎖
・大阪金属工業 → ダイキン工業
・浦江製作所 → 日本スピンドル
・大庫鉄工所 → オークラ輸送機
・富士鉄工所 → フジレックス
出所:松下隆(2013)「官営工場が大阪産業集積の形成に与えた影響の相異性 -大阪砲兵工廠と造幣局の比較を通じて-」,p.44
訪問した中小企業
・昭和軽金属工業
・中川鉄工所
府内の機械器具、金属工業の職工数の62%が大阪砲兵工廠で働いていた!
大阪府内の1945年(昭和20)の機械器具工業の工場数1,924、職工数約7万5千人、金属工業の工場数1,053、職工数約3万人
出所:松下隆(2012),p.8
対して、
1945年(昭和20)の大阪砲兵工廠で勤務する職工のみで6万5千人
2業種の合計職工数約10万5千人なので、大阪砲兵工廠の職工がそのうち、62%を占めていた。
こんな規模の工場はおそらく、大阪では最初で最後のはず!
1941年(昭和16)に始まった太平洋戦争中における各兵器類の生産官民比率は多くは民間企業が負っていた!
「航空機部品」のみ、官が背負う比率が民よりも高い航空機以外は、すべての兵器類は民が生産を担当していた
大阪砲兵工廠が生産していた「火砲」では、官が30%、民間70%であったことから、部品等の生産は民が担当し、組付け・検査・試射等は官が担当したと考える
工廠での雇われ外国人技術者 計15人
計15人( イタリア13人,フランス1 人,イギリス1人)
代表的
・ポンペヲ・グリロ イタリア(大砲製造)
・ウィリアム・ガウランド イギリス 当初は造幣局(冶金・化学)
上の写真は「韮山反射炉」現存する唯一のもの。
鉄鋼技術は、鉄などを溶解し、加工材料を製造するものである。火砲製造が主たる役割であり、砲身をはじめ、台座、固定具など大砲の部品に様々な種類の鉄鋼材料を必要とした。1889 年(明治22 年)坩堝(るつぼ)炉が初めて設置され、その後、外国式の溶解方法を真似た平炉から電気炉まで順次設置された。
1884年(明治17)、12角反射炉2基完成
出所:三宅宏司(1984)「大阪砲兵工廠の創設」『技術と文明』1巻1号(30),日本産業技術史学会
ただ、製品レベルを得られず、失敗となったものも多かったようだ。
工廠でニッケル・クロム鋼を自製するのは、1914 年(大正3 年)のことで欧米との技術差は約20 年以上におよび、「外面から判断しにくい 熱処理技術などによる品質改善、高級特殊鋼の生産に おいて、およそ国際水準に及ばないものが多かった」 (三宅(1993),p.396)。
一方、その技術での実用先として、インフラ整備が急務であった水道鉄管では、1892 年(明治25 年)大阪市の依頼に応じて大阪市水道用鉄管の鋳造に着手し、1895 年(明治28 年)総重量9,360トン余りを手掛けた。
ライフリング(施条構造)を加工するには、切削、研削、研磨などといった機械金属加工技術が必要であった。そのため、高度な技術を実現すべく、外国人技師の招聘、外国製工作機械の購入・設置により、技術のキャッチアップが行われた。なかでも技術革新に大きな成果をもたらせた技師として、伊太利国砲兵少佐ポンペヲ・グリロが挙げられる。
上の写真:出所:三宅宏司(1989)『日本の技術 巻次 8 大阪砲兵工廠』,第一法規出版
日本で初めてアルミニウム加工を実用化させたのは工廠で、1894 年(明治27 年)とされる。「工廠では軍隊用の帯革や剣を吊るための尾錠の製作を始めた。その後、研究が進むにつれてアルミニウムの用途が増え、1896 年(明治29年)獨逸より飯盒及び水筒の製作に必要なる壓搾(あっさく)機、旋盤機等の諸機械が輸入せられ、翌年より工廠では飯盒を製作した」 (大阪市役所産業部調査課(1932),p.18)。加工の研究成果は、航空機部品の軽量化のために大きく貢献した。
一方で、1898 年(明治31 年)から飯盒のほかにも火薬入れの容器、食皿等の軍需品以外に、鋤鍋(すきなべ)、丸鍋、丸辨當函(まるべんとうばこ)などを試作。また、1901 年(明治34 年)には工廠出身の工員4名は共同組合組織の下に平野町の金物商高木鶴松に販売を一任し、東淀川区長柄の大阪時計製造所工場跡にて事業を開始し、1902年(明治35年)に丸鍋及び鋤鍋を主に販売した。高木は後に、北区木幡町に高木アルミニウム製造所(現:日本アルミニウム製造所の前身)を起し、民生品を製作し「鶴松ブランド」としてアルミニウム器物の普及に大きく貢献した。
大阪市東成区東今里に工場を構え、当時は主として通信機のアンテナを覆うアルミカバーを陸・海軍に松下無線㈱ を通じて納めていた。
他にも、小型銃用の薬莢を大阪金属工業所の堺工場に住友商事を通じて納入していた。
インパクトプレスは、他にインパクト加工(1 工程衝撃 深絞り加工)などと呼ばれる。一般的な絞り(薄板からの加工)と異なり、材料(スラグ)にパンチで何十トンを超える衝撃(インパクト)を与え、スラグをパンチに沿って伸び上げる加工方法である。冷間鍛造にも似た技術であり、終戦後に創業したアルミニウム加工工場では多数採用されたが、需要の減少ともに設備を有する工場は廃業に追い込まれたとのこと。